原発から20キロ圏内の「警戒区域」には警察が立っていて、入れないようになっています。20キロから30キロ圏内は「緊急時避難準備区域」に指定されていて医療・福祉が無く、子どもや介護が必要な人は住めない地域になっています。仮設住宅の建設もできず、今後どうなるのかわからない地域です。
南相馬市の市長さんは、このような状態では復興ができないので、早くその警戒を解いてほしいとおっしゃっていました。でもこの警戒をとき、子ども達が戻ってきて、その場所を復興し始めて大丈夫なのでしょうか。原発からは未だに放射性物質が出続け、事故の収束の見通しもたっていない、そんな中で市長さんの胸中を考えると本当に切ない気持ちになります。
南相馬市役所に市民が放射能のことを知りたいと思ったときに手に取れる資料が置いてありました。「放射線医学総合研究所」の作ったその資料の中の食物からの放射性物質の年間摂取量基準値が50ミリシーベルトで書かれていることが今も頭から離れません。南相馬市や福島県がそのような状況にある場所なのだということ、内部被爆が晩発性障害を起こすこと、外部被爆と合わせると年間どれだけの被爆を強いられるのでしょうか。
20キロから30キロ圏内では、こわれたままの家や瓦礫がそのまま放置され、人の暮らしが感じられない町になっていました。ふるさとや我が家から離れ、どこで避難生活を送っておられるのか、ここで暮らしていた人達の人生を考えると、本当に心が痛みます。
2日目は石巻市を視察しました。大きなガスが入っていたタンクがまるで空き缶が転がっているかのように道路に横たわっているのを見て、津波の力がどれほどすごかったかを思い知りました。街は魚の腐った臭いが充満していました。瓦礫の中にまだ行方不明の方の遺体があるのです。初めて訪れた石巻市、ここで生産されていた魚や水産加工物を食べさせてもらっていたのです。
福島で作られた電気を使い、石巻で加工された食べ物を食べ、その場を知らずいました。
都会に住む私達がその現場を知らないことが、多くの問題を引き起こしているのだと思います。今回見たことを決して忘ないようにしようと思います。そして遠くで作られた電力に頼らず、少しずつでも都会でエネルギーを生み出す方法を考えて実践していきたいと思うのです。