原水禁署名運動は杉並区から始まった

今も昔も母親たちの力は大きな原動力になる

1月9日に『原水禁署名運動の誕生 東京・杉並の住民パワーと水脈』の著者で久我山在住の丸浜江里子さんのお話を聞きました。

1954年、アメリカがビキニ環礁で水爆実験を行い、実験場から160Km離れた場所で漁をしていた第五福竜丸が死の灰を浴びて被爆し、汚染された魚が水揚げされました。
それを受けて杉並区立公民館を拠点とし、区内のさまざまな市民活動団体、区議会などからなる水爆禁止署名運動杉並協議会が立ち上がり、全国的な運動、原水爆禁止の署名運動が広がっていきました。40団体からなる杉並婦人団体協議会の女性たちが実行委員として署名運動の主力となって作業に関わりました。母親達は降り注ぐ放射能、それに汚染された食べ物を前に、子どもを育てるために一番必要なものがなくなる危機感をもってこの運動を進めていったということです。

福島原発事故後の今の状況とまったく同じです。いま、幼い子どもを持つ保護者はまさに子どもの食べ物からの内部被曝を心配し、多くのグループが立ち上がりそれぞれに活動を進めています。しかし驚いたのは、57年前には区議会の議場で区民が訴える時間が持たれ、その日の午後の本会議で区議会がこの運動を推進することが採択されたという点です。
そして区長もこの運動に賛同し、署名運動の本部として区立公民館の使用を認め、区職員が窓口で署名を集めることを容認し、超党派で運動が展開されたということを本当にすばらしいと思いました。

現在、自分が身をおく区議会と比べてみると、脱原発の意見書を区議会から上げようと提案し、各会派に話しましたが、いろんな理由から断られ、それはかないませんでした。でもこの日の話を聞いて、自分から呼びかけることに遠慮する必要はない、本当にやらなければならないときはこれまでの常識にとらわれず、もっと広範囲に声をかけようという気持ちになりました。

今、原発都民投票の運動は都に条例制定を直接請求するために2月9日までの署名活動を行っています。この日聞いた話を励みに、さらに垣根を越えていろんな立場の人たちとつながって、目標を達成するために頑張ろうと思いました。